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執筆者の写真mirainohyakusho

第六回前編 味覚の哲学を旅する

更新日:2021年10月4日






 表参道駅から徒歩10分、とある寺に辿り着く。その目の前に現れるのは、生江史伸氏が料理長を務めるフレンチレストラン、レフェルヴェソンスだ。さらに、六本木方面に足を進めると、六本木ヒルズには彼がディレクションを行うベーカリーショップ、ブリコラージュブレッドアンドカンパニーがある。渋谷の東急には、近日2号店がオープン予定だ。コロナ渦で外食産業の在り方に変化が起きつつある今、生江氏が提唱する”食哲学”について話を聞いた。

 

土地に根付いた味


 オリーブオイルや醤油を使って料理をしたのはいつだろうか?今朝食べた納豆に醤油をたらしたかもしれないし、昨夜のパスタはオリーブオイルたっぷりのペペロンチーノだったかもしれない。現在のわたしたちには当たり前の調味料が、数え切れないほどある。しかし、長い間日本の発酵食品の臭みや、米の香りは、日本国内でのみ親しまれてきた。オリーブオイルも、たったの数十年前までは、日本で受け入れられない香りだったが、今では日本中どこの家庭にもある、欠かせない食品の一つだ。


 極端に言えば、選択肢が限られている時、人間は環境に自らの舌を慣らしていく。例えば、日本米を海外で味わうのは至難の技だ。生江氏がイギリスに住んでいた時、日本米を買うためには遠く離れたロンドンのアジアマーケットまで足を運ばなければならなかった。しかも、そこで手に入るものはカリフォルニアで作られたコシヒカリで、さらにイギリスの水は硬水なので、米を炊くのにそもそも適していない。結局、日々の食生活はパンがメインとなったが、その環境に順応していくのに比例して美味しいと感じるものも変化していった。土地特有の味や香りは、一歩外に出ると、馴染みのない食べ物に変わるが、それらを世界中で簡単に味わうことにできるようになったら、食の価値は一体どうなるのだろう?



images courtesy of Namae Shinobu



人が美味しさを感じる条件 -経験と記憶-


 “美味しいものの定義付け”は難しいと、生江氏は語る。同じ人に同じものを食べてもらっても、その時々のコンディションで味の印象はいとも簡単に変わるからだ。一昔、高級レストランが”予想のつかない味”を出す流行りがあったという。しかし、それらが実際に客側を満足させたかというと、そうとも限らなかった。近年の研究によれば、人間は過去に食べたことのある味を、ポジティブに記憶におとすという。美味しいを普遍的にするためには、”食の経験”が重要となってくる。ファインダイニングを提供する立場として、生江氏はこの事実を意識し、自分が作りたい味と、喜んでもらえる味のバランスを巧妙に調節している。見た目は新しくとも、過去にもある食べ物と重なる部分を取り入れることで、どこか懐かしいと感じる味わいを作り出してきた。


 しかし、文化圏が違ったり、食の経験が異なる場合、”懐かしい”と感じる味わいが変わってくる。なるべくたくさんの人に満足してもらうためには、”美味しいと思う環境設定”が必要となると、生江氏は語った。美味しいと思う環境設定は、食べたいと思う場所の提供にも通ずる。生江氏の食の哲学の上で、食事をする時の気分の高揚は、美味しいと感じたり、満足感を得るために欠かせないエッセンスだ。自分の趣味嗜好を押し付けるのではなく、相手側に寄り添った環境作りは、まさに心理戦だと語った。この心理戦に挑むことで初めて、食を提供する側の主張を受け入れてもらい、提案を楽しんでもらうことができる。


 このような生江氏の食に対する強いこだわり、哲学の始まりは、彼の少年期に遡る。次回のエピソードでは、生江氏の原風景を探っていく。


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